「個の力」という言葉は便利に使われすぎている。選手や指導者はどう考えるべきか提案したい。
筆者が現役時代からずっと言われている言葉。そしてずっと気になっている言葉。それが「個の力」という言葉だ。
サッカーの実況でも解説でも言われるし、プロでも育成年代でも指導者がよく口にしている。だがこの言葉、あまりにも便利に使われすぎていると筆者は感じた。選手の助けになっている言葉かと言われればNOだとまで思っている。
・この言葉がどのように使われているのか
・選手目線でそれを聞いてどう感じたのか
・言葉の使い方はどうするべきか
・選手はどう考えるべきか
という点について筆者の持論を述べていきたい。
「個の力」が意味すること
まずこの言葉がどんな意味で使われているのか。
ほとんどの場合は、「突破力」「キープ力」と同義だと考えて良いと思う。ボールを持ったときの能力だ。
よく使われる場面としては、ドリブルで相手をぶち抜くとかプレスで囲まれても奪われないとか、ボールを持ったときに一人でどうにかしてしまう力のことを指すことが多い。その象徴がネイマールでありメッシである。この言葉を使う指導者の多くが南米に憧れを持っている、というのも不思議な共通点だ。
この能力自体は、もちろんサッカーにおいて貴重な武器となり得るものだ。先日、セレッソ大阪を率いるロティーナ監督もインタビューの中で
現代サッカーにおいてはどれだけパスを回しても、高いボール支配率で相手を支配しても、1対1で相手の守備システムを打開しなければ得点のチャンスが生まれないからだ。
という発言をしている(参考・・・外部リンク)
だがこの言葉を、指導者や解説者は都合良く利用しているのではないかと筆者は考えるようになった。
ドリブルには判断が伴う
ドリブルは当然ながらプレーの一つであり、そこには判断が伴う。先日こんなツイートをした。
地獄の始まり。ミスを受け入れる前提として、
「サイドアタッカーには仕掛けるべき場面がある」
という認識がないとね。それこそ話題になったドリブルデザイナーも、この認識をした選手が仕掛けるべき時に突破できない、と課題を正しく認識していれば大きな学びになる。判断が正しければミスは学びだ。 https://t.co/KFupZkMTsb— 山田有宇太 (@Grappler_yamayu) October 2, 2020
この中身について、少し詳しくお話ししたい。
そもそも突破力とは、1vs1の仕掛けを制することが出来ることと考えられる。そしてサッカーには、ここで突破できればチャンスという場面が存在する。典型的例を挙げてみる。
11人全員は置いていないが、簡単に。左サイドで作って右に大きく展開という場面だ。このとき、円で囲った部分はスペースが大きい1vs1となる。このボールの動き方と人の配置自体は決して珍しくなく、よく見かけるだろう。
ここで攻撃側は何を考えるか。当たり前だが、一番チャンスに繋がるのはドリブル突破だろう。
ここまで、とても当たり前のこと、よく起きることだけを書いた。DFのカバーがいない、なら突破すれば大チャンス。これは誰しもが考えるだろう。
では少しだけ状況を変えてみる。
DFに一人カバーが増え余っている状況。この状況でも絶対に仕掛ける!という判断は正しいだろうか?筆者はそうでは無いと思う。広報の味方に大きなスペースが出来ているのだから、そこを利用した方が効果的な攻撃が出来るだろう。
ドリブルに限らず全てのプレーには、判断が伴う。突破力の大前提には「ここはドリブルで仕掛けるのが最も効果的だ」という判断が無くてはいけないと言うことだ。
では、この言葉をなぜ筆者は利用されていると感じたのだろうか。
言われる状況がおかしい
この言葉、最も聞くのは「日本の育成年代の課題」が議論されている時だ。次に日本代表が苦しんでいる試合で解説が口にするあたりか。
そこら辺で言われる内容を簡潔にまとめれば、
・日本の選手は突出した個を持っていないからチャンスメイクすることが出来ない
・育成年代からもっと個にこだわって育成しなくてはいけない
というような内容になるだろう。これを筆者は現役時代からずれた議論だと感じていた。
第一に、なぜ突破力とキープ力だけが「個の力」という謎のグループにされて評価されるのか。その理論で言えばセスクやシャビは個の力を持たない選手になってしまう。判断という前提が抜け落ちた議論をされても、選手が最も悩みトレーニングするのは判断なのだから全く説得力が無い。
第二に、先にも述べたようにドリブルには仕掛けるべき場面がある。にも関わらず、その場面を作り出す過程に関しての議論をほとんど聞いたことがない。フィジカル、個の力。この二つはしょっちゅう話題になるが判断力の向上に関して何も進展していないのでは無いか。いくら突破力を持った選手を育てても生かす場面が訪れなくては意味が無い。実際、もっとドリブルが上手くなれば良いのかと思って筆者は取り組んでいたが、それよりもサッカーの理屈を知った方がよっぽど選手として上達することを後に知ることとなった。
なぜこのようなプロセスが抜け落ちた状態になっているのか。それが今回最もお伝えしたいことだ。
無理矢理どうにかする力を「個」と呼ぶ危険性
ここまで書いてきた状況をまとめるに、議論されるときにはプロセスが抜け落ちていることが大きな問題となる。最近のJリーグでも、きちんとチームとして設計図を描いているチームとアイディア勝負のチームで大きく試合の質に差が付くようになってきた。それは育成年代でも同じだろう。きちんとボールの動かし方を教えてもらっている子供達と、精神論で育っている子供達には大きな差が付いているはずだ。その差は当然ながら試合にも現れる。
ボールの動かし方や考え方を教えていないチームは、一人一人のボールを持ったときの能力に依存する可能性が高い。簡単に言えば、「きつい状況でも無理矢理なんとかしろ」という状況が生まれがちだ。そこを無理矢理どうにか出来る選手を指して「個の力がある」と言えば他の選手が力量不足というように聞こえてくる。だが果たしてそれは正しいのだろうか。
大切なのは、無理矢理どうにかしなくてはいけない場面を作らないことである。ボールの動かし方、正しいポジショニングを勉強していけばそのような状況に遭遇する機会はどんどん減っていく。何故ならば、それだけDFが多い状況であれば他にフリーの選手がいるはずなのだ。あるいは予測のトレーニングがしっかり出来ていれば、「不利な状況になりそうだから辞めよう」と言った判断が出来てくるはずである。
これらの要素を無視し、きちんと指導が出来ないままに不利な状況を招き解決できず、「個の力が足りない」と発言したらどうだろう。ただの良いわけに過ぎないとは思わないだろうか。
もちろんそんな指導者ばかりでは無いと思う。ただそんな現実も存在するのだ。
どう改善するべきか
まず「個の力」という曖昧な言葉が必要無いと筆者は思う。突破力、キープ力とそれぞれの能力に分類すれば良いだけだ。そうすることでボールが無いところでの能力、ポジショニングや予測、駆け引きなどの面にも目が行くようになるかもしれない。「個の力」という言葉が一人歩きする先には、足下技術至上主義が待っている気がしてならない。
そしてもう一つ、曖昧な言葉を指導者が使うのは逃げに他ならない、というのが筆者の考え方だ。正確に起きている事象を認識できていないのか、認識できているが言語化出来ていないのか、筆者には分からない。だが指導する立場である以上、曖昧な言葉で逃げてはいけない。正しく説明し、選手の理解を助けてやらねばならないと思うのだ。昨今はSNSでもブログでも書籍でも、ヒントになるものは山ほど有る。特に若い選手達はそういったツールを活用し自力で勉強するようになってきている実感がある。そこには今まで教えてもらえなかった事がきちんと言葉で説明できる人たちがいて、知らなかったことを知識として知れるようになってきた。それに対して指導者の勉強はどこまで発展しているだろうか。
筆者は感銘を受けた指導者と、能力に疑念を抱く指導者どちらにも出会ってきた。感銘を受けた指導者は皆、一つ一つの事象や悩みに対して抽象的な言葉を使うこと無く向き合い解決の道を示してくれた。
「個の力」という言葉はそれらを見失う危険性をはらんでいる。だからこそこの言葉に逃げずに向き合って欲しい。
選手はどう捉えれば良いか?
最後に現役の選手達に向けて。
この言葉に踊らされる必要は無い。自分が向き合いべき課題はそんな曖昧な言葉ではない。もっと具体的に自分の課題を抽出していこう。耳障りの良い言葉は、それだけ解像度が低い。苦しんでも良い、明確に自分の課題をあぶり出していくことが間違いなく成長へと繋がる。ついでに言えば、こういった現象をしっかり言葉で説明してくれる指導者に教われるチームを探す努力をして欲しい。
その指導者から学ぶことは、きっとサッカーをもっと面白くしてくれる。
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