【2019年のnote記事移行】才能を認めること、生存バイアスを潜り抜けること【追記あり】

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本記事

 

前回、noteが予想以上に沢山の人に読んでいただけた。
そして、僕はスランプへ落ちた。
自分の存在意義、表現が分からなくなってしまった。

今日は、これから僕が何を目指すのか、朧気ながら見えてきたものを表明したいと思う。
感情の整理も踏まえているから、駄文になると思うが、ご一読いただければ幸いだ。

 

 

 

前回書いたnoteがこちら。(本ブログに移行済みです。)

 

【2019年のnote記事移行】私がサッカーをやめた話【追記あり】

 

自分がなぜサッカーを続けたのか、それを言葉にした。
得意だと思っていたものが、下手糞と言われ続けコンプレックスへと変わる。
それでも選手にこだわった理由を、自分なりに表現できたと思う。

そして、自分の中にあったすべての引き出しが無くなった。

今でもサッカーを見るたびに思う。僕は敗者だ。
確かに楽しかった。生きがいだった。けれども、僕は生き残れなかった敗者なのだ。
それを否定することは、自分の競技人生を否定することだと思っている。
敗者がいるから、勝者は生まれる。平等が正義では、スポーツの意義がない。
勝ちたくて、上手くなりたくてプレーしていたからこそ、自分は敗者だと認識している。

そんな中、ある思いが浮かんだ。

自分なら生存バイアスを超えた言葉を誰かに届けられないか。

生存バイアスという言葉がどれほど認知されているか、僕にはいまだにわかっていない。

Wikipediaによれば

「何らかの選択過程を通過できた人・物にのみを基準として判断を行い、通過できなかった人・物は見えなくなるためそれを見逃してしまうという誤謬である。」

と記載されている。
簡単に言えば、生き残った者の主張が正義と取られる傾向と考えていだろう。

僕は選手時代、努力中毒だった。
成功者は皆、努力すれば報われると言ったからだ。
自分が成功しないのは努力が足りないからだと言い聞かせ続け、文字通り吐くまで努力をし続けた。

そうして上のレベルの選手と戦い、共に練習をし、学んだことがある。

「才能の壁」だ。

サッカーに必要な才能は多岐にわたる。

・ボールタッチ、コントロール
・体格含めた身体能力
・脳の処理能力
・瞬間視、動体視力等のスポーツビジョン能力
・努力できる能力
・落ち込まない強気なメンタル、自信

ざっと思い付くだけでもこれだけある。

更に優秀な指導者と出会えるか否か、怪我をするかしないかなど幸運に恵まれなくてはならない。

全てをひっくるめて「選手の能力」というただ一点のみで淘汰される世界に、努力だけで何とかなるという綺麗事は言ってはいけない。
努力も才能も運も、全部合わせて人生を懸けて勝負なのだ。純度を下げ、目を濁らせてはいけないのだ。

Jリーガーになれる割合を試算された方は複数人おられるが、算出方法が一定ではないため難しい。
おおよそでいうと、0.1%と言われている。
サッカーに本気で取り組んだ人間のうち、1000人に1人程度だ。
途轍もなき狭き門、倍率1000倍の超難関である。

そしてJリーガーの引退の平均は26歳といわれている。
1000倍の門を突破した者たちが、更に生存競争を行う特異な環境。
それがJリーグ。プロの世界。

この現実を見たうえで、ボロボロになるまで努力した人たちに、
「努力すれば夢は叶う」
とあなたは言えるだろうか。

成功したものはすべからく努力の大切さを口にする。
それは一つの正解だ。
その努力なくして成功は無かっただろうし、尊ばれるべきだ。

しかし彼らの才能を無視することは、過酷な現実を見失うことに直結する。
才能もまた、賞賛を受けるべきなのだ。

それに気づいたのがサッカーを引退してからだった。
私は私の器量においてやれることをやったのだと、少しだけ胸を張れるようになった。

私にもし出来ることがあるのならば、その競争に本気で挑み、そして敗れた体験がカギを握るのではないか。
それは今まで世間に届かなかった、生存バイアスを潜り抜けた、生々しい敗者の声だ。

天才、それはごく一部の限られた人間に与えられる称号。
非凡だからこそ、彼らは賞賛され輝く。

サッカーのプレイヤーの99.9%はプロになれない。
彼らに届くのは、そんな私からの声なのかもしれない。

ご存知の方もいるかもしれないが、noteでの反響から私はブログへ寄稿させていただく機会を得た。
こちらのブログだ。

 

大人になってから学ぶサッカーの本質とは(外部サイト)

 

このブログで最近取り組んでいるのは、

「Jリーガーの凄さを言語化して伝える」

というテーマのシリーズだ。

私には、練習すればすぐできるようになる才能は全くなかった。
人よりも上達が遅く、悩みすぎて胃潰瘍になった。

だからこそ、理屈を理解しようと勉強を続けた。

その苦労が、この文章を生み出したと思っている。
それは、苦しんで本気で努力したからできることなのかもしれない。

私は、サッカーで結果を残せなかった。
ただ、その努力の過程が誰かの参考に、面白さに、そして救いになるなら。
きっと私にしか書けないものを生み出せる。

敗者だからこそ、凡人だからこそ。
ほんの少しだけ、そう思えるようになった。

 

 

追記というか後書き

 

 

悩んでたんだなあ当時の自分、というのが率直な感想。

当時の私は、自分のプレーに対する知見というか見方が誰かの参考になるとは思っていなかった。
だから自分の体験を伝えることが持ち札であり、全てだと思ってしまっていた。

結果として前回の記事で、自分にしか書けないものは全て出し尽くしてしまったと思っていたのだ。
だが今はなんとか、自分なりに現役時代にため込んだインプットを吐き出すことに成功している。

ここでも書いているのだが、「生存バイアス」というのは本当に厄介だ。

そしてこれはおそらくだが、成功者の中には自分が何故成功したのかを正確に認識できている人はそう多くない。特にサッカーのようなスポーツでは顕著だと思う。で、勝者というか結果を出した人の意見を参考にする人が多いから生存バイアスはより強まっていくのだと。それが正しいかに関わらず。

この話を思い付いたのが、

「俺にしか書けないことってなんだ」

と考えていた中での話だ。生き方、というテーマでは無く技術や上達に関する話では、成功しなかった人の知見というのはなかなか少ない。

だが何故成功したのか、を考えて学ぶのと同じぐらい「なぜ成功できなかったのか」という視点からも得られるものはあるはずである。

ならば、俺が人生の大半をかけて駄目だった中で伝えたいことを書こう。
俺と同じ後悔をしないように、かつて悩んだ俺がインターネットでサッカーを学んだように。

俺が出来なかったことを誰かに繋げよう。そう思った。

それは人の役に立ちたい、という高尚な理由だけではなくて単純に俺の後悔を成仏させるためでもある。

 

俺の好きなブーン系小説に

「ドクオが人体実験の被験者にされたようです」(外部リンク)

という作品がある。とんでもない名作なので是非読んで欲しいのだが、その中に

「俺は誰かを救いたい・・・
 誰かを救えることが・・・俺の救い・・・」

こんな台詞が出てくる。今の俺を動かしているのは、まさしくこの気持ちだ。

 

何度も言うが、俺は敗者だと自分で思っている。競争に自ら身を投じた以上、ここから目を背けることはサッカーに対する冒涜だとすら思っている。そしてこの人生をかけた敗北は18年間も付き合ったサッカーを見たくなくなるほどにショックを与えた。

その後悔は今でもあるし、死ぬまで無くならないんだろう。でも、この後悔をきっかけに誰かを救えるのならば、俺の敗北にも意味を見出すことが出来る。

意味があった、なんて言うつもりは無い。無理矢理でもこじつけでもいい、意味を見出すことで救われたいのだ。

だからこそ生々しく、生存バイアスをくぐり抜けて、あらゆる事を伝えたい。綺麗事は要らない。

 

そんな覚悟を決めたのがこの記事です。

 

 




 

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