「育成年代の話が浅はかだ」と怒られたので決意表明をします。
先日、Twitterにて割と辛辣な意見を頂いた。
浅はかですか、大変申し訳ございません。なにぶん自分が経験してきたことしか知らないものでして。その理論で行けば地域リーグの体験も同じく浅はかになると思うので辞めておきますね。 #Peing #質問箱 https://t.co/aS0Lz7gUOx
— 山田有宇太 (@Grappler_yamayu) January 2, 2021
浅はかな記事で大変申し訳ない。だが筆者は別に育成年代について論じたいわけではないし、育成年代の環境改善とかもそこまで興味ないのだ。
ということで今回はそんな筆者のスタンスについてここで表明しておきたいと思う。もはや個人的な決意表明エッセイになってしまった。興味のある方だけ読んでいただければ。
誰に向けて書いているのか
そもそも誰に向けて書いているのか、という話をしたいと思う。
筆者は、過去の自分を救いたくてこのブログを書いている。これはいくつも記事を書いている内に思ったことだ。
誰に向けて、というターゲットを想定することをペルソナ設定というが、このブログのペルソナは過去の俺だ。
自分がなぜ成長できなかったか、何で後悔したかを書き残したい。それによって誰かの成長や悩みの助けになればと思って今でもキーボードを叩いている。
自分以外の誰かと強いて言うならば、才能があまりなく草の根の環境でサッカーをしている人たちになると思う。
エリートの気持ちが分からない
筆者はエリートの気持ちが分からない。だからなんで挫折したのかもなんで悩んでいるのかも全く想像も付かない。
筆者が分かるのは、全国大会すらほど遠いような一般的な選手達のことなのだと思っている。
彼らはテレビに出ることも無ければJリーグにスカウトされることも無いかもしれない。だがプレイヤー人口の99%はそんな選手達なのだ。もっと上手くなりたい、勝てるようになりたい。でもどうすればいいのか分からない。そんな人たちにほんの少しでも道筋やヒントを与えられるかもしれないと思って、過去の自分が感じた後悔を中心に書いている。
よって、育成年代について論じたつもりは全くないのだ。
現場について論じるつもりもない
おそらく勘違いされたのはこの記事なのではないか、と思い当たる記事がある。
こちらだ。
こちらの記事では高校名やチーム名を出しているため、そのように受け取られたのかもしれない。だがこの記事で筆者が言いたいのは現場についての議論や善悪では無く
・選手はドリル形式の練習で何を得るべきか
・取り組むことのリスクはなにか
というように、徹底して選手目線で書いたつもりだ。ドリブル塾自体の善悪も言及したわけではない。あくまでも筆者は、選手にとって役に立ったり助けになったり力になったりヒントになったり、という記事を目指している。
日本サッカー界の未来に興味が無い
ここで主張することでは無いのかもしれないが、筆者は日本サッカーの未来にあまり興味が無い。
そもそもJFAが好きじゃない、というのもあったりする。
でも一番覚えてるのはB級ライセンスの開催側のコーチが俺を指さして
「この子なんか初日すごくへたくそだったんだから」と全員の前で言ったこと。
仮にもJFA側の人間がそんな言い方するのかよ、と思いました。そりゃ目的はB級取る指導者側だけど、選手の気持ちも考えて欲しかった。— 山田有宇太 (@Grappler_yamayu) September 15, 2020
※記憶違いをしていましたが、A級ライセンスでした。
これも理由の一つではあるのだが、もう一つはあまりにも別世界過ぎると思っているのが理由だ。
エリートは恵まれた環境に辿り着く
最も身近なところで言えば地区トレセンに始まり、サッカーには選抜される機会がある。強豪チームや強豪校へ進むためのセレクションも同様だ。その中で才能あるエリート達は勝手に恵まれた環境へと辿り着くことが出来る。練習の環境も良い、指導者も有名、大きな大会にも出れる。
彼らの悩みなど到底想像も付かないし、同じ人間だと思ったことも無いため力にはなれないだろう。ならなくても才能があるから勝手に成長するだろうし。
伸び悩む人の力になりたい
だがほとんどのプレイヤーはそうではない。
才能の差や環境の差、様々な現実を目の当たりにして絶望しながら、それでも上手くなりたいと願って戦う。場合によっては顧問の先生がサッカー未経験かもしれない、顧問が練習に来ないかもしれない。根性論しか言わないコーチ、理屈を教えて貰えないコーチの指導を受けているのかもしれない。
エリートではない選手達の教えて貰える事象には、限界があるし指導者との出会いは運任せだ。
だからこそ、自分で出来る勉強、自主トレ、プレー中の意識などの参考になる記事を書きたい。それを読んで、ちょっとでも上手くなったりサッカーが楽しくなればなにより筆者は幸せだ。
この記事に何の意味があるのか
この記事を書いたことで誰になんの意味があるのだろうか、と書きながらずっと考えていた。だが答えは出ていない。
たぶん、この記事も自分が救われるためなのだと思う。
筆者の人生は後悔で塗り固められた泥道だ。
何一つ思うように出来ず、親をはじめとした周囲の人間を落胆させながらここまで生き存えていると思う。何も成し遂げられず、自分では精一杯やっていたつもりでも他人の精一杯との差を知り落ち込み、素質の差を感じ凹み、気質の差を味わって絶望して、力尽きて選手を辞めた。
その後悔がどこの誰に届くのかは分からない。だが誰かに届いて欲しい。誰かの救いになって欲しい。
筆者の後悔が誰かの救いになれば、筆者の選手人生も無駄では無かったことに出来る。後付けの意味が生まれる。その意味は筆者に残された唯一の救い、蜘蛛の糸のようなものだ。
利己的な行為であることは分かっているのだが、それでも誰かの力になれる可能性があることもまた事実で。だとしたら書くしかない。生き恥を晒しても、過去の後悔を思い出して胃が痛くなっても、記事が浅はかだと嘲笑されても。
なので、このブログを今後とも見守っていただければ幸いです。
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