ラフプレーは「・故意かどうか・一生懸命だから」というのは関係ないという話
最近考えること、思い付いたことをじゃじゃっと書きます。固有名詞、映像などは一切無しです。考え方の話です。
一生懸命だからしょうがない?
サッカーを長くやっていると、
「これは身体的に危険だな」
「ここは止まらないとまずいな」
と分かるシーンって沢山あると思うんです。経験者なら身に覚えがあると思います。
スライディングしたけど交わされそう、交わされたら相手の足に当たっちゃいそうなとき。
一縷の望みに懸けて全力で突っ込むよりも足だけでもなんとか引っ込める。これがマナーでありフェアプレーだと思っています。
体ごと突っ込んだらワンチャンあるかもしれないけど相手に大怪我をさせそうなきわどいボールの時。
止まれないとしても相手との接触の仕方とか、ギリギリで避けようとするとか、少しでも軽減させる必要があります。
上記の例はいずれも、全力でありながら相手を気遣うものです。
JFAに掲載されているフェアプレーのページには
相手に敬意を払う
相手チームの選手は「敵」ではない。サッカーを楽しむ大切な「仲間」である。仲間にけがをさせるようなプレーは絶対にしてはならないことである。
という記載、そしてJFAサッカー行動規範には
最善の努力
どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽してプレーする。相手の尊重
対戦チームのプレーヤーや、レフェリーなどにも、友情と尊敬をもって接する。
という記載があります。
もちろん、ギリギリの際どいボールに躊躇するようなメンタリティではプロになれないし、そこでの鬩ぎ合いというのもサッカーです。ですがその根底には
・ルールに則り
・相手を傷つけない範囲で
という共通理解があります、いわば信頼です。
しょうがないものとそうでないものは違う、激しいと荒いも違う
例えばクロスに対する競り合い。
お互いノーファールで五分五分の競り合いから、頭を強打してしまう。
これは本当にしょうがない部分かも知れません。引くわけにはいかないから。
でも僅かでも相手が優勢であり、それに対して無茶なチャレンジをしてしまった瞬間にラフプレーへと変わってしまいます。
そのラインはおそらくですが、
「相手に与える危険よりも自分たちの競技面における優位を優先した」
という事になるかと思います。
五分五分であればリスクも等分ですから、引くわけにはいきません。
相手のが優勢だな、相手が先にコントロールしそうだな、と察知したら無茶なチャレンジを辞めて即座に次の判断に移る。
これが全力を尽くした上でのフェアプレーなのだと思います。
明らかにボールより遅れているのにスライディングをかまして負傷させる。
絶対にヘディングが間に合わないのに体ごと突っ込む、体当たりをしてしまう。
これらは全力ではなく、思考停止したギャンブルです。しかもベットしているのは相手の体。
もちろんカードをもらうというリスクもありますが、怪我の前には些細な事に過ぎないと筆者は考えており。
そういう意味で言えばノーリスクの博打に走っていると言えるのです。
で、誰かが負傷するようなプレーを見たときに、直前で思いとどまれそうかこりゃしょうがないわと理解できるかというのは思いのほか他人から見て分かるものです。
ましてや対戦相手ならば、なおさら分かると思います、これは選手時代の経験上の話です。
「いや絶対そのタックルボール奪うつもりじゃないじゃん」
「その足の振り、俺の体ごと蹴るつもりやん」
という場面にも実際に遭遇してきましたし、自身もやってしまった経験があります。
自身もやっているのだから偉そうな顔は何一つ出来ませんが、全力の激しいプレーと危険なプレーの差というのは分かっているつもりです。
だからこそ、
「全力で戦っているのだからこういうことも起こる」
では済まされないプレーというものは存在するし、
「わざとじゃないのだからしょうがない」
という言葉で片付けてしまってはいけないプレーも存在します。激しくルールの範囲で戦うプレーと相手をおざなりにした荒いプレーは絶対に区別しないといけないのです。
わざとじゃ無いとしても、間違いなく頭にその可能性はよぎっているはずなのです。そこでやばいと思って止まれる強い意志を持っているか、やけくそに闘争心をぶつけてしまうかの差はとても大きい。自制心と言い換えても良いかもしれません。
ファールされた側のリアクションについて
で、こういうときに考えるのがファールされた側のリアクションです。
先に書いたように、こりゃしょうがねえ悪意はねえなっていうのは受ける側からしてもなんとなく把握できるものです。もちろんその感覚が正しいとは限りませんが。
例えばスライディングにしても明確な意志を持って足に突っ込んできたのか止まれなかったのか、無茶なのかギリギリなのかというのは案外バレます。
だからファールされた側が本気でキレているときは、多くの場合意志を感じ取っていることが多いです。
明らかに壊しに来たな、とかお前止まる気なかっただろ、とか。感覚的な部分なので経験者以外には伝わりにくいかも知れません。ただそういう感覚があって、バレがちだということを伝えておきたい。
そこまで痛そうなファールじゃ無くてもぶち切れてるとき、それはプレーそのものよりも意志に危険を感じてるときかもって話です。
正しい全力のプレーが普及して欲しい
部活文化で育ってきた筆者の経験上ですが、たとえファール気味でもガツガツいける選手は褒められていたし、相手を思いやるよりも意志を貫徹するような文化があったと思っています。この文化が全国の部活共通なのか、筆者の周りだけなのかは分かりません。
ですが正しい全力のプレーというものを改めて考え、普及してくれれば良いなあと思っています。力任せ、闘争心任せのプレーは筋力としては全力でも頭を全力で使っていません。思考停止したフルパワーは多くの場合危険を伴います。またこのフルパワーは試合への勝利では無く、相手への憎悪という形を取ることも少なくない、これは経験上思います。
全力のプレーを追求するならば、相手に危険の無いラインを知ることも必要なはずですし、それは日々のトレーニングから指摘されることで叩き込まれるものです。これなら全力でいっても大丈夫、これは全力でいくと危ない。その線引きは蓄積によって作られる。日々の過ごし方によって構築されるのであれば、正しい全力のプレーが普及するには毎日の小さな積み重ねしか手段は無いかもしれない。
指導者の方は大変だとは思いますが、なんとかこのことを多くの人に伝えて欲しいと思います。あくまでもサッカーという競技の中で争って欲しい。筆者自身が道から外れた経験、それによって得たものは後悔しか無かったという体験もあります。だからこそ恥を忍んでこんな文章を書いてみようと思いました。
プレーの批判と誹謗中傷の区別
最後になりますが、こういった事例が実際に起こったとき、今の世の中では間違いなくSNSが大活躍します。悪い意味で。
見ている側に出来ることはあくまでプレーの批評しかありません。そしてプレーを元に個人を攻撃することは許されません。
Wikipediaで個人攻撃という言葉の定義を見てみると
議論においては、議論の内容に冷静に焦点を合わせることが必要となる。議論の内容とは異なる、議論相手の人格を混同してしまうと議論は本筋から脱線してしまう。議論では意見を扱い、人を扱うものではないため、個人攻撃は議論におけるルール違反である。
と記載されています。プレー自体が議論の対象であり、選手個人のパーソナルな部分に関しては対象ではないのです。
あくまでもプレーに対して「なぜ止まれなかったのか」「なぜ止まるべきだと考えるのか」という発信は公益に繋がるという考え方が出来ますが、個人に対する攻撃は許されることではない。
批評、批判と誹謗中傷の区別というのを発信する前に、もう一度考えてみて欲しいと思っています。あらゆる人が発信者になれるこのご時世だからこそ、発信する側のモラルというのが追いついていない現状は非常に危険です。
筆者ももちろんまだまだ学んでいるところではございますが、皆様におかれましてもご一考いただければと思う次第です。
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